■ミッシェル・デュカロワてどんな人?
ここ最近SNSでもよく見るようになったROSETTogo(ロゼトーゴ)、もしくは名前を知らなくても見たことがあるという方が多いのではないでしょうか?ミッシェル・デュカロワはロゼトーゴのデザイナーです。
そんな彼が生誕して100周年を迎えました。1968年にロゼアドリアを発表して以来、ロゼトーゴ、ロゼブリガンタン、ロゼカシマとリーン・ロゼを代表するモデルを生み出してきました。
現在、ロゼトーゴ、ロゼブリガンタン、ロゼカシマを対象にフェアを開催中ですが、そのデザイナーについて紹介していきたいと思います。



■デザイナーを目指すきっかけ
1925年フランスの第二の都市といわれるリヨンで生まれ、家具製造を営む家庭で育ちました。デュカロワの家系は、リヨンでは名高い装飾家 『Cheley ssin家』 で、個人住宅や船体、展覧会、公的建築物のデザイナー兼家具製造を家業としていました。幼い頃から家族や、一家の運営する会社の現場でデザインと技術を学び、大きな影響を受ける環境のもとで育ちました。彼は生まれながらにして、デザイナーの道に進むよう運命づけられた人とも言えるでしょう。製造工場では、今も伝説の客船として語られている 『SS Normandie(ノルマンディ)』 のインテリアも作っていました。また、デュカロワは家業を手伝いながら、リヨン国立高等美術学校(École nationale supérieure des beaux-arts de Lyon)の彫刻科で学び、卒業しました。


※SS Normandie号:1935年に就航したフランスの豪華客船(1935-1941)華麗な客船は当時 『洋上の宮殿』 として知られていたが、1942年に装飾品の撤去作業中に火災が発生し、海に沈んでしまった。


※1756年に設立され、絵画・彫刻・写真・映像・デザイン・建築など幅広い美術分野を学ぶことができるフランスの国立美術学校。

■デザイナーとしての道
1​​952年にデザイナーとして独立し、デザインスタジオを設立。その2年後の1954年に、ロゼ社の ジャン・ロゼ がデュカロワのデザインに心を奪われ、ロゼ社と仕事を始めるようになり、その後ロゼ社に入社したデュカロワはデザイン部門の責任者になりました。60~70年代に登場した新素材ウレタンフォームや熱成形プラスチック、キルティングなどを最大限に活用して、技術の限界を押し広げ始めました。社内に8名で構成された研究開発室ができた際、デュカロワはチーフを務めており、その中には、 『PLUMY(プリューミー)』 や 『SANDRA(サンドラ)』のデザイナー、アニー・イエロイムス も彼の弟子として参加していました。


アニー・イエロイムス


1968年、デュカロワは初のモジュール式オールウレタンフォームチェアである 『ROSETAdoria(ロゼアドリア)』 をデザイン。2019年には、復刻版として 『ROSETSaparella(ロゼサパレッラ)』 が発表されました。デュカロワが有名になったきっかけは、1973年にパリの SALON DES ARTS MÉNAGERS というホームユース向けの家具の見本市で発表したソファ、それが『ROSETTogo(ロゼトーゴ)』です。サロン誕生50周年を迎えた記念すべき年に、デュカロワのデザインしたロゼトーゴ が発表され、業界そして一般のお客様から一躍脚光を浴びました。そして、主催者から名誉ある Rene Gabriel  (ルネー・ガブリエル) 賞 を授与されました。この賞は、1950年から 『革新的で権威にとらわれない家具』 に与えられる賞で、ピエール・ ポランも同賞を受賞しています。
ウレタン、ポリエステル、キルティング等を資材に、無限の可能性を追求し、誕生したソファ。誕生の基盤には、リヨン国立高等美術学校で学んだ彫刻であり、そこに彼の自由な発想を融合させたユニークなシェープが魅力的です。70年代の代表的なソファは、50年以上を経た今でもベストセラーであり続け、独特な寛ぎのスタイルや個性を表現するアイテムのひとつとして、様々な人に愛用されている。世界中の空間に登場しているTogoは約70カ国に展開され、これまでに150万台以上販売されている。コンテンポラリーなライフスタイルをトータルに提案する ligne roset ブランドの主力商品にまでなりました。
『人生は短い。短いからこそ、ソファの上では快適であるべきだ。』
美しさ、デザイン性、快適さ、どれかに偏るのことないバランスの取れたデザインにこだわっていたデュカロワ。彼は、ligne roset のブランド認知と、海外市場への拡販に力を注ぎ、26年間のコラボレーションの末、1986年にロゼ社を退職。晩年は、リヨンの田舎にある古い建造物の保存運動に全力を尽くし、2009年7月30日、83年の生涯に幕を閉じました。